LOGIN噂というものは、扉を叩かない。
窓も開けない。 招いてもいないのに、隙間から入り込む。 香水の匂い。 市場の立ち話。 仕立屋の試着室。 礼儀正しい手紙の追伸。 使用人の親戚が勤める別邸の台所。 そういう場所を渡り歩いて、いつの間にか屋敷の廊下に落ちている。 セレスティアは、それをよく知っていた。 六年前もそうだった。 ミレイユがアルベルトと婚約したとき、誰かが正面からセレスティアへ言いに来たわけではない。 気の毒に。 でも、あの子なら仕方ないわ。 セレスティア様はお堅いから。 ミレイユ様は華やかでいらっしゃるもの。 そういう言葉が、直接ではなく、斜め後ろから聞こえてきた。 聞こ噂というものは、扉を叩かない。 窓も開けない。 招いてもいないのに、隙間から入り込む。 香水の匂い。 市場の立ち話。 仕立屋の試着室。 礼儀正しい手紙の追伸。 使用人の親戚が勤める別邸の台所。 そういう場所を渡り歩いて、いつの間にか屋敷の廊下に落ちている。 セレスティアは、それをよく知っていた。 六年前もそうだった。 ミレイユがアルベルトと婚約したとき、誰かが正面からセレスティアへ言いに来たわけではない。 気の毒に。 でも、あの子なら仕方ないわ。 セレスティア様はお堅いから。 ミレイユ様は華やかでいらっしゃるもの。 そういう言葉が、直接ではなく、斜め後ろから聞こえてきた。 聞こえないふりをした。 背筋を伸ばした。 それで済んだことにした。 けれど今回は、済ませてはいけない。 セレスティアが書斎で報告書を確認していると、リュシアンが低く言った。「噂の出どころが三つに絞られた」「早いですね」「家令が怒っている」「家令殿が?」「ああ。顔には出ないが、かなり怒っている」 セレスティアは一瞬だけ想像した。 あの無表情の家令が怒る姿。 おそらく、普段より紅茶の温度が一度高くなるとか、書類の角が異様に揃うとか、そういう方向だろう。 怖い。 静かな人の怒りは、時々かなり怖い。「一つ目は、レイモンド伯爵夫人の弁務官周辺」 リュシアンは書類を机へ置いた。「二つ目は、サルヴァ商会
録音魔石を再生する日、セレスティアは朝から喉が渇いていた。 水を飲んでも、紅茶を飲んでも、少しも潤った気がしない。 喉が渇いているのではなく、体の内側が乾いているのだと思った。 昨日、薬草保管庫から見つかったもの。 ミレイユの手紙。 薬の処方記録。 ノエルに渡さないで、と書かれた封筒。 そして、録音魔石。 透明な小さな石は、今はリュシアンの書斎の机の上に置かれている。 何も知らない人間が見れば、ただの装飾品のように見えるだろう。 光を受けて、静かに輝いている。 だが、その中に声が入っている。 誰の声か。 ミレイユか。 アルベルトか。 レイモンド伯爵夫人か。 それとも、ジル・サルヴァか。 分からない。 分からないことは怖い。 けれど、聞かないままにするほうが、もっと怖い。「顔が冷たいな」 書斎に入るなり、リュシアンが言った。 セレスティアは目を上げる。「冷たい顔とは?」「怒っている顔だ」「怒っています」「怖いか」「怖いです」「両方か」「両方です」 そう答えるのに、もう抵抗がなくなっている。 怒っている。 怖い。 その両方を同時に持つことを、ノエルから学んだのかもしれない。 リュシアンは机の前に立っていた。 隣には財務監査院の監査官。 記録官もいる。 女性薬師も呼ばれていた。
朝、ノエルは青いリボンを何度も触っていた。 布兎の耳に結び直されたリボン。 昨日までと同じ場所にある。 だが、同じではない。 一度ほどかれ、端の縫い目を開かれ、中に隠されていた鍵の片割れを取り出された。 セレスティアが丁寧に縫い直し、結び直したが、布にはわずかに跡が残っている。 ノエルはその跡を指先でなぞった。 怒っているようにも見える。 悲しんでいるようにも見える。 確かめているようにも見える。「痛そうですか」 ノエルが尋ねた。 朝食の前だった。 いつもの小部屋。 机の上には今の箱。 箱は淡い黄色の布袋に入っている。 青い紐は、三人で決めた面倒な結び方できちんと結ばれていた。 パンはその下で丸くなっている。 昨日、箱を食べなかったので、ノエルに「少しえらい」と言われていた。「布兎が?」 セレスティアが聞き返すと、ノエルは頷いた。「リボンのところ」 セレスティアは、布兎の耳をそっと見た。 針を入れた跡は小さい。 だが、ノエルには大きく見えるのだろう。「少し、跡はあります」「痛い?」「痛かったかは分からないわ。でも、大切に直しました」 ノエルは布兎を抱きしめた。「布兎は、怒っていますか」「どうかしら」「わたしなら、怒ります」「そうね」「勝手に秘密を入れられて、あとで開けられて」「ええ」「布兎も、箱に紙を入れたほうがいいですか」
レイモンド邸へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。 窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。 朝の通りにはパン屋の匂いがあり、馬車の車輪が石畳を叩く音があり、子供を連れた母親が露店の前で値切る声がある。 世界は、こちらの事情など知らずに普通に動いている。 ノエルの箱に知らない紙が入れられたことも。 赤い薔薇の花瓶から、ミレイユの紙片と鍵の片割れが出てきたことも。 その紙片に「赤を捨てないで」と書かれていたことも。 街の人々にとっては、何の関係もない。 それが少し羨ましく、少し腹立たしかった。「顔が怖いぞ」 向かいに座るリュシアンが言った。 セレスティアは窓から目を離す。「閣下に言われたくありません」「私は元からだ」「私も最近、元からということにしておきます」「便利な言葉を覚えたな」「あなたから学びました」 リュシアンは少しだけ眉を動かした。 馬車の中には、他に財務監査院の監査官が一人同乗している。 彼はずっと書類に目を落としているが、たぶん聞こえている。 最近、この人は公爵家周辺の会話に慣れてきたらしく、余計な反応をしない。 それはそれで、少し申し訳ない。「緊張しているのか」 リュシアンが尋ねた。 セレスティアは一瞬だけ迷い、正直に答えた。「しています」「温室が怖いか」「温室そのものではなく、ミレイユの隠し方が怖いのです」「隠し方?」「彼女は、昔から秘密を遊びにするところがありました」 セレスティアは膝の上の手を見下ろした。
箱が怖くなる、ということがある。 普通なら、そんなことは考えない。 箱はただの箱だ。 木でできていて、蓋があって、中にものを入れる。 それだけのものだ。 けれどノエルにとって、今の箱はただの箱ではなかった。 自分の言葉を入れる場所だった。 大人が泣いても慰めなくていい、と書いた紙。 今日は会わない、と決めた紙。 自分は数字ではない、と書いた紙。 お父様が怖い。でも心配でもある、と書いた紙。 その全部が入っている箱だった。 そこへ、知らない誰かの言葉が勝手に入り込んだ。『お母さまみたいになりたくないなら、赤い花を捨てて』 その紙は、もう箱にはない。 セレスティアが預かり、証拠用の封筒に入れた。 封筒には、ノエル自身がこう書いた。『わたしの言葉ではない紙』 それでも、箱の中に一度入ってしまったという事実は消えない。 ノエルは朝から、箱の蓋を開けられずにいた。 手を伸ばす。 触れる。 でも、開けない。 その横で、パンが箱の角を嗅いでいた。「パン」 ノエルが小さく呼ぶ。 パンは顔を上げる。「食べないで」 パンは尻尾を振った。 まったく分かっていない。 その分からなさに、ノエルは少しだけ笑った。 けれど笑いはすぐ消えた。「パンはいいですね」 ぽつりと言う。「何が?」 セレスティアは、少し離れた椅子に座ったまま聞いた。 近
共同後見人になった最初の朝、セレスティアは眠れなかった。 正確には、少し眠った。 椅子に座ったまま、机に肘をつき、額を手の甲へ乗せた姿勢で、ほんの一刻ほど意識が落ちた。 目が覚めたときには首が痛く、右手の指先にはインクがついていた。 机の上には、昨夜見つかった手紙が置かれている。『ノエルに会わせてくれ。 このままでは、あの子の母親と同じことになる』 何度読んでも、意味が定まらなかった。 脅し。 警告。 父親の焦り。 あるいは、誰かに書かされた文章。 アルベルトの字であることは間違いなさそうだった。 しかし、彼は監視下にいる。 自由に公爵邸の門番へ手紙を渡せる状態ではない。 ならば、誰がこれを届けたのか。 侍女長エレナか。 ジル・サルヴァか。 レイモンド伯爵夫人の手の者か。 それとも、公爵邸の中にまだ誰かいるのか。 考えれば考えるほど、屋敷の壁が薄くなる気がした。 昨日、ノエルは「今日は安心してもいい」と箱に書いた。 小犬の名前はパンになった。 共同後見が認められた。 その夜に、この手紙だ。 大人の世界は本当に、子供が安心した瞬間を狙って壊しに来る。 最低だった。「起きているか」 扉の向こうから、リュシアンの声がした。 いつもより低い。 この男も眠っていないのだろう。「起きています」「入る」